賢治先生の家は、ひとを招く住まい

岩手県立花巻農業高等学校は、宮沢賢治が教諭として勤務した花巻農学校の、後身に当たる学校として知られています。校内に「賢治先生の家」と呼ばれている建物があります。宮沢家の別荘だった建物です。

賢治先生の家は、ひとを招く住まい 暖かさを感じながらも、何ともモダンな住まいです。隅に寄せた開口部が美しいです(この記事の画像は全て、当麻喜明さんの撮影です)

賢治先生の家

「賢治先生の家」は1904年(明治37年)に、花巻市内の北上川や畑を見下ろす景色のよい高台に、宮沢家の別荘として建てられました。その後、この地に移築されたのでした。

賢治先生の家

屋根の構造がユニークでリズムを感じます。屋根の高さに変化を持たせたり、2階の屋根が1階の屋根と一体にしたり。左側の屋根が低く壁が黒く見えている入り口が、住まいの玄関です。右側の屋根が少し高い部屋が、教室になっています。

賢治先生の家

その教室の入口には、賢治の所在を伝える掲示板が掛けられています。賢治のおもてなしの心を感じます。「いつでもひとを招くことができる住まい」は、私が住まいを設計するときに、大切にしていることです。

賢治先生の家

「下ノ 畑ニ 居リマス 賢治」と、自分の居場所が書いてありました。この文字は消えかかってくると、現在の花巻農業高校生徒が、掃除のときに書き直してくれています。

賢治先生の家

「下ノ畑」とは、こんな畑でした。賢治は教師として教えることだけでなく、自らも農作業を実践するすることを大切にしていました。人々が苦しんでいる現場に赴き、人々の苦しみを体験するためでしょう。

賢治先生の家

賢治は、1921年(大正10年)11月から、稗貫農学校(現花巻農業高等学校)教師でした。1926年(大正15年)3月に農学校を退職し、4月から、この「賢治先生の家」で自給自足の生活を始めました。

賢治先生の家

この教室は、賢治がリフォームしたのでしょう。周囲の農家の人たちを集めてレコードの鑑賞会や、子ども向けの童話の朗読会を始めたそうです。

賢治先生の家

火鉢を囲んで木の丸椅子がおいてあります。こうやってお話をしていたんでしょうか。オルガンは賢治が実際弾いていたそうです。

賢治先生の家

農学校卒業生や農村青年たちに、農業や肥料の講習、レコードコンサートや農民楽団の練習、自作演劇の稽古などもしていました。賢治は「羅須地人協会(らすちじんきょうかい)」を設立しました。

賢治先生の家

「芸術は厳しい暮らしの中にこそ必要」という信条が賢治にありました。賢治、理想の学校でした。賢治、自立の場所でした。「農民芸術概論綱要」は、ここで書かれました。

世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない

賢治先生の家

左側が教室です。右側が和室と、その上に書斎があります。和室と書斎の隅部は2方向に窓なっていて、きっといい眺めだったでしょう。

賢治先生の家

和室は直接外に面しているのではなく、和室の周りを縁側で囲んでいます。

賢治先生の家

和室では、妹トシが療養していた時期がありました。2階の書斎にいる賢治が看病をしていました。トシが旅たったときに賢治が書いた「永訣の朝」の一節です。

『ああ あのとざされた病室の
くらいびゃうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ』

賢治先生の家

トシの居る和室、賢治の居る書斎の窓からは、こんな風景が見えていました。北上川や山並みも美しいのですが、畑での農作業をしている人たちを眺めることも、楽しかったでしょう。

賢治先生の家

夜は夜で、月の灯りが室内に優しかったでしょう。この景色のために隅に寄せた大きな窓。窓を設計するとき、外観や室内から、「窓そのものが美しい」か検討しますが、「窓から見える景色」こそが、その窓の本質なのです。

賢治先生の家

賢治も旅たった後、この宮沢家の別荘は人手に渡り、高台の場所から現在の地に移築されました。手狭になった農学校も、市内(現在文化会館)から広い校地の現在の地に移りました。

その敷地内に賢治先生の家があった偶然...。

「奇跡」に近いことだったかも知れません。


「賢治先生の家」いつか、訪ねてみたいです。岩手県立花巻農業高等学校のご厚意により、中を見学させてもらうことができるとのことです。