満開の桜の下で、老いと向かいあう住まいを思う〈122〉

遊歩道に覆いかぶさる、満開の桜の下を歩いていて、ふとわかったことがあるのです。私自身が造った住まい、他者が造った住まい。今まで私は、たくさんの住まいを見てきて、私が住まいの良し悪しを判断している、第一の基準がわかったのです。それは、「私自身の老いや、やがて訪れる死に対して、その住まいが向きあっているか」ということです。

満開の桜の下で、老いと向かいあう住まいを思う


『散る桜 残る桜も 散る桜』、良寛の辞世の句です。

桜は咲いた瞬間から、やがて散りゆく運命を背負っているように、

私は生まれた瞬間から、老いることや死ぬことが決まっていました。

まえがき。「老いと向かいあう住まい」を思う

住まいを建てるということは、長い人生でたった一度のことなので、

もっとも輝いているといわれる、30代、40代のひとときだけに、

焦点をあてているような住まいに、してはいけないと思うのです。

住まい。私の日々の暮らしを、包み込んでくれている住まいには、

私の老いや、やがて訪れる死までも、優しく受け止めてほしいのです。

まえがき。「老いと向かいあう住まい」を思う

満開の桜のような人生の一番いい時にこそ、私の先に待ち構えている、

老いや死について考える、最適な時にも思えてくるのです。

老いや、やがて訪れる死を受け止めてくれる住まいは、きっと、

居心地の良さと、深いところで繋がっているはずだと思うのです。

まえがき。「老いと向かいあう住まい」を思う

随分と昔から、生まれる前からではと思うくらいの昔から、

ずっと桜を見てきた気がするのです。みなさんもそう感じませんか。

もしかすると、私たちの遺伝子の中には、

桜を見上げたことまで、記録されているのかもしれません。

それと同様に、「居心地のよい住まいで暮らし続けたい」とも、

記録されているかもしれないと、私は思うのです。